記憶というのは情報の蓄積である。
記憶という大枠の中に情報が詰まっている訳ではない。
情報が積もり積もって、記憶という形を成している。
さて、一度形成された記憶の断片、情報の一欠片がこぼれ落ちたとする。
一欠片どころではないかもしれない。
穴が開くようにあちらからもこちらからも、情報がポロポロと抜け落ちていく。
そうして結果的に残った穴あきチーズのようなそれは、果たして記憶としての形を保っていられるだろうか?
答えはおそらくイエス。

例えば本がある。
多くの紙の集合体であるそれから、ランダムに数ページ破り捨てる。
そこに出来上がる物は、数枚の紙屑と、数ページ足りなくなった、やはり「本」である。

桜を見に行った。
女の人と一緒だった。
その人は銀の鈴をチリリと鳴らした。
どこへ行った?
女の人は誰だ?
何を話した?
細かい断片は思い出せなくなっている。
それでも確かに記憶はそこにある。
桜は綺麗だった。
女の人が笑った。
銀の鈴。
思い出は消えない。

穴ぼこだらけの脳味噌を抱えて、俺は細い路地に座り込んでいた。
俺は誰なのか、名前は、年齢は、住んでいる所は、ここはどこなのか、どういう経緯でここに座り込んだのか。すっかりと思い出すことができなかった。
腰には刀を帯びている。
刀の使い方は知っている。
何故知っている?
何の為に知っている?
この景色を知っているように思う。
しかし同時にこの景色を知らないようにも思う。

とにかく動いてみることにした。
道に迷っていたのかもしれない。
少し歩けば、はっきりと知っている景色に出くわすかもしれない。
もやもやした気分を抱えて歩き回る。
行く先々で、その場所を知っているような気がして、知らないような気がする。
曖昧なもやもやが増えてゆく。
そうしてもやもやとした不安が頭のてっぺんから爪先までをすっかり満たしてしまう頃、俺は再び最初に座っていた路地に戻った。

座り込み、今度は考えてみることにした。
穴だらけの記憶をバラバラの情報に戻し、どうにか繋ぎ合わせて形にしようと試みる。
考えて、考えて、考えて、考えて、そうしていつか考えることをやめた。
考えることをやめる頃には、土が固められていた路地はアスファルトで舗装され、真っ暗闇の夜には街灯が灯るようになり、道路を馬車が走り、それもやがて自動車に変わり、道行く人々の服装は変わり果て、俺はとっくの昔に死んだ人間なのだということをすっかり理解していた。

俺の声は誰にも届かなかった。
俺の姿は誰の目にも映ることがなかった。
通りかかる人の肩を叩こうとした手は、その人の身体をすり抜けた。

石ころに触れることに気付き、投げた。
投げたその石は通りすがりの人に当たり、当たっただけで、俺の存在を主張してくれることなく再び道端に転がった。

棒きれを拾って地面に何か書こうとしてみた。
しかしいざ書こうとすると、棒きれは俺の手をすり抜けてパタリと倒れた。

ぬかるんだ地面に足跡は残らない。
俺はこの世に痕跡を残すことができないのだと理解した。

腹は減らなかった。
眠くはならなかったが寝ようと思えば寝られた。
暑さも寒さも感じなかった。
時だけが流れた。
ただ流れゆく時間を、過去を失い未来を築くこともできない俺は、永遠に止まった時の中で眺め続けた。
苦痛も孤独もとうに忘れ果てた。

そうして、もう数えることもしなくなった秋が来た。
秋になると、俺の路地の周辺は、妙に賑わう。
同じ服を着た、同じ年頃の少年少女が、毎年集団で旅行に来るのだ。
彼らは毎年俺の前を通り抜け、俺の身体をすり抜けていった。
それは紅葉と同じくらいに珍しくない、いつも通り、秋になれば当たり前に流れてゆく時間の一欠片であった。

しかしその年、「いつも通り」でも「当たり前」でもないそれに、俺は出会った。
同じ服を着た女の子が数人。
細かく入り組んだ路地に迷ったらしく、地図を広げて俺の周辺をうろうろしている。
一人は俺の前を走り抜け、一人は俺の投げ出した足を踏みつけることなくゆっくりすり抜けて行った。
俺は風が吹くのと同じようにそれをやり過ごすつもりだった。
吹き抜けてゆくはずの風の一人が、ピタリと俺の前で立ち止まる。
何気なく俺は顔を上げた。

目が合った。

それはその辺をうろうろしている子達と何が違うでもない、極々普通の少女だった。
きょとんとした表情、その目は確かに俺の目を捉えている。
彼女の薄い唇が開いた。
背筋をすうっと冷たい感覚が通り抜け、喉元がきゅうっと萎縮する。
彼女は俺に何かを言おうとしているかもしれない。
動いてもいない心臓がバクバク踊るような錯覚を覚える。
堪えきれなくて俺の方が口を開こうとした瞬間、彼女は俺から目を逸らして振り向いた。
少し先を行っていた女の子が、大きな手振りと共に彼女を呼んでいる。
「道がわかった」という旨の呼びかけに、彼女は安堵した表情を見せ、小走りに去っていった。

何が何だかわからなかった。
気が付けば彼女の後を追っていた。
目が合ったあの瞬間、止まっていた俺の時間がほんの少し動いた。
ここで彼女を見失ってしまったら、時間は再び止まってしまう。
あの彼女なら、俺の時間を動かしてくれるかもしれない。
過去を失った俺に、未来を一から築かせてくれるかもしれない。

根拠は無い。
確証も無い。
ただの偶然かもしれない。
はっきり言って俺の自分勝手な、独りよがりな思い込みだ。
しかしその偶然は、あの瞬間、俺にとっては確かな「希望」であった。


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20060324 煙草
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