そいつはリッちゃんのことを「シマちゃん」と呼ぶ。
リッちゃんよりたぶん少し年下で、その割に妙に落ち着いた話し方をする。
いつもにこにこと薄い笑みを浮かべていて、細められた目からは逆にあまり感情が読み取れない。
俺はそいつが好きではない。
でもリッちゃんは、そいつが来ると嬉しそうな顔をする。
だから余計に、俺はそいつが好きではない。
名前を「ちはる」という。

最初に名前を聞いた時は、てっきり女の子なのだと思っていた。
が、男だった。
リッちゃんとは従兄弟の関係にあたる。
小さい頃から仲が良かったらしく、家もそう遠くないので、たまに自転車に乗って遊びに来る。
「ちはる」が来ると、リッちゃんは嬉しそうな顔をする。
リッちゃんが嬉しいことは、俺にとっても嬉しいことではある。
それでも俺は、「ちはる」を迎えてドアを開けた瞬間のリッちゃんの笑顔が、「いらっしゃい」ではなく「おかえり」と言う明るい声が、なんだか気に食わない。

「ちはる」が家にいる間、俺は黙っておとなしくしている。
何か言ったところで無視される。
そりゃそうだ、何も無い所に向かって話す姿なんて、誰にも見せられないだろう。
俺の存在を認識できるのはリッちゃんだけなのだから。

リッちゃんがいなければ、俺はこの世界と関わることができない。
俺の声を聞いてくれるのも、俺の姿を瞳に映してくれるのも、リッちゃんだけ。
俺の手が触れた物をそうと認識できるのもリッちゃんだけ。
例えば閉まっているドアを開けてみても、リッちゃん以外の人間は、最初からそれが開いていたかのように振る舞ってみせる。
俺が携わった部分だけ世界が、時間が切り取られて、無かったことになってしまう。
でもリッちゃんは違う。
「俺」をきちんと認識して、世界と繋ぎ止めてくれる。

「ちはる」が家にいる間、俺はリッちゃんから、世界から、放り出されて一人になる。
ずっと一人で薄暗い路地に座り込んでいた、あの時は逆に「一人だ」などと感じることはなかった。
今の俺は、リッちゃんと共にいることの心地良さを知っている、だからこんな時、「孤独だ」と感じるようになってしまった。
孤独を教えたことの責任を彼女に求めるのは違うだろうと、自分でもわかっているつもりだ。
わかっている、けど。

「ねえ」

「ちはる」と談笑するリッちゃんに、できるだけ明るく、小さな声をかけてみる。
リッちゃんは自然な素振りでこちらに目をやり、視線だけで「ごめんね」と申し訳なさそうな表情を作った。
そんな顔、しないで。
俺にも、そいつにするのと同じように、今、笑いかけて。
そんな目をさせたのは俺なんだけど、それを求めたのは俺なんだけど。
ドロドロと渦巻く苦い感情を閉じ込めて、俺は笑う。

俺にとってリッちゃんは唯一の存在で、けれどリッちゃんにとっての俺はそうではないことに、「ちはる」が来ると気付かされる。
俺のいる世界と、リッちゃんや「ちはる」がいる世界は、違う。
リッちゃんはたまたま、俺の側に片足だけ踏み込むことができるだけ。
二人の世界は違う。

ちょっと怖い御伽噺なんかだと、こういう時は幽霊が生者を取り殺してしまったりする。
自分と同じ世界に引き込む為に。
しかし俺は人間を取り殺す方法なんて知らないし、知らなくて良かったと思う。
俺はそんなことしたくない。
リッちゃんの命を奪ってまで、彼女を抱き締めたいなんて思わない。
ただ、手を離さないで。
指先一本だけでいいから、いつも繋いでいて。
一人にしないで。
このままいつか「ちはる」がリッちゃんを完全に向こう側に連れ帰ってしまって、俺は一人で取り残されてしまうのではないだろうか。
ぞっとしない考えだ。

リッちゃんと「ちはる」が時計を見上げて立ち上がった。
ようやく「ちはる」が帰るらしい。
俺は大きなため息をついて、見送りに出るリッちゃんをふらふらと追った。
触れることのできない彼女の手を、手の平で輪郭だけなぞって撫でる真似をした。
愛しい。
吐き出しても吐き出しても湧き上がってくる気持ちは、違う世界のこの人を大切に想うことは、いけないことなのだろうか。

「じゃあ、また電話するから」

リッちゃんより少し高い目線から、「ちはる」は彼女に笑いかける。
「うん」と頷いて、リッちゃんは「ちはる」を見上げた。
その視線は「ちはる」の視線に交わらなかった。
「ちはる」の目はリッちゃんの頭の上を通り抜けたその少し先、後ろに立つ俺の目に焦点を合わせた。

「ところでシマちゃん、面白いの連れてるね」

穏やかに細められた色素の薄い目が、ふわふわした前髪の間から、しっかりと俺の存在を捕らえている。
見返した俺の視線は「ちはる」のそれとは交わることなく、だが確実に、「ちはる」は俺のことを『視て』いた。

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20060727 煙草
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