千陽が帰って一時間経つ。
タニシは出てこない。
使っていない小さなクローゼットの中、私には様子を窺うことができない場所で、たぶん何かを考えている。
一人になりたい時、彼はそのクローゼットに閉じこもる。
そこに私は干渉することを許されない。
タニシがそれを言い出した訳ではない。
私達の間に明確にそういった取り決めがある訳ではない。
ただ、いつの間にかそういうことになっている。
暗黙の了解。
そんなルールがいくつか出来上がる程度には、私達は時間を共有している。

私はベッドに寝転び、買うだけ買って積み上げていた漫画を開いている。
さっきから同じページをずっと眺めているような気がする。
内容が頭に入ってこない。

「シマちゃん、面白いの連れてるね」

いつものように私を見下ろす帰り際、千陽は言った。
私より少しだけ高い位置にある目は、私の顔ではないどこかに焦点を合わせていた。
私は肩に虫でも付いているのかと、身体を捻り、玄関にある姿見を覗き込んだ。
覗き込む私に、千陽の視線はついてこない。
彼が見る「面白いの」は、今私の顔があったその位置、少し向こう。
そこには玄関と部屋を隔てる扉・・・と、その前に佇む、半透明の姿。
タニシが呆然と突っ立っていた。
浮いていたのかもしれない。
その時、私とタニシは同じ顔をしていたんだと思う。
千陽はその後、私とタニシを交互に見比べて、小さく笑い声を上げた。

従兄弟の及川千陽は、私のことを「シマちゃん」と呼ぶ。
彼は私にとって唯一「肉親」と呼べる存在である。
私の両親と千陽の家族は、同じ事故に巻き込まれて亡くなった、らしい。
「らしい」というのは、どうやらその事故には私も居合わせたらしく、どうにか助かることができたものの、前後の記憶が全く残っていないのだ。
私の胸元には、その時負ったという傷の跡がある。

千陽はたまに私の家に遊びにやって来る。
私の方から遊びに行くことは滅多にない。
別に意識して行かない訳ではなく、単に私は出不精なのだ。

千陽に幽霊が見えるだなんて話、初耳だった。
タニシのことは少し前から知っていたらしい。
それを言わなかったのは、私がタニシの存在を認識しているのかどうか、その辺の見極めをしていたのだという。
知らないのなら無駄に怖がらせることもない、という彼の気遣いは、全くの無用だった。
私はタニシの存在を認識している。
めっちゃ見えている。
会話までしている。
聞かれるままに応えた。
それだけ聞くと千陽は帰った。
私は、淡々とした千陽の態度に拍子抜けした。
もっと騒ぐかと思っていたのだ。
千陽はマリアナ海溝よりも深い懐の持ち主のようだ。

私と千陽のやり取りの間、タニシはずっと押し黙っていた。
ただ千陽を見ているばかりで、彼が帰った後、すぐにクローゼットに閉じこもった。
もうそろそろ一時間半になる。
お腹が空いてきたので、おにぎりを作ることにする。
梅干、おかか、わかめのふりかけ。
具材のことに七割、残り三割の脳の容量で、タニシのことを考える。
クローゼットの扉をスッとすり抜けていった時の、彼の表情について考えている。
あの表情は、その下にある感情は、何と呼べばいいのだろうか。
たぶん、タニシ自身もそれは知らない。
タニシといえば、彼はたらこのおにぎりが好きなのだ。
それも作っておいてやろう。
思考は十割おにぎりで染まる。

籠城を始めて二時間半、タニシがふらっとクローゼットの扉を抜けてきた。

「おなかすいた」

抑揚のない、子供のような平べったい声。
入っていった時とは違う、感情の抜けたぼんやり顔。
私はたらこのおにぎりを一つ取って渡してやった。

「たらこだね」

へらっ、とタニシの顔に「笑み」が被さる。
いつも通りの緩みきった笑顔。
タニシの顔だ。
私はもう一つおにぎりを渡す。
タニシ自身から触れることはできないおにぎりが、私が介在することで、彼の領域にも入り込めるようになる。
ふと、気付いた。
もしかして、千陽も同じことができるのではないだろうか。
私は思ったそのままを口にする。
タニシは少し、苦い顔をしてみせた。

「俺、あいつ嫌い」

理由はわかりやすく、たぶん、「嫉妬」。

「普通にいい子だよ千陽は」
「だろうね。でも俺は嫌い」
「話してみればいいのに。それから決めても遅くないんでない?」
「駄目。俺、あいつとは話せない」

糠に釘ってのはこのことか。
随分頑固な糠である。
私はその場は諦めた。
千陽は穏やかで優しい、いい子だ。
タニシのわかりやすい嫉妬光線だってきっと、笑って受け流してくれる。
少しずつわかり合ってくれればいい。
そうしていつか三人で過ごせるようになったその時間は、きっと楽しいものになるだろう。
おかかのおにぎりを頬張って、その時の私は、実に楽観的な夢を見ていたのである。


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20061126 煙草
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